「ジャニーズなので、自分たちで選んだ、かっこよさです僕たちなりの」

今からちょっと近所のCDショップに行ってくるんですけど、なんだか落ち着かないので、スマホでブログ書いています。殴り書きみたいな記事だけど、怒らないでー。

 

 

先日、2013~2014年のSexyZoneのドキュメンタリーを見てたとき、『悪魔ちゃん』の映画の宣伝でコンサートリハーサルに参加できなかったマリウスが、「間に合いますか?」と尋ねるインタビュアーにこんな風に答えていた。

でも絶対に完成させます、ジャニーズなので

他のグループのドキュメンタリーをあんまり見たことがないので比較できないんだけど、SexyZoneの人たちってすぐに「ジャニーズだから」とか「ジャニーズなので」って言う。ふまけんはすぐ言うし、勝利も聡ちゃんもけっこう言ってるの聞く気がする。

11歳でドイツからやってきて、Jrとしての下積みもほとんどないまま「SexyZone」になったマリウスが、「ジャニーズだから絶対やり遂げる」っていう精神を誰から学んだかって言えば、たぶんそれは四人のメンバーなんだよなーと思ったら、ぼろぼろ泣けてしまった。

 健人くんが先日雑誌のインタビューで「状況がどう変わっても、ぼくのスタンスはJrのころから変わっていません。何事にも全力でマジで!これが全てです」って言っていたけど、健人くんを応援するようになって仕事で手を抜いているのを一度も見たことがない。いつだって、その姿勢でグループをひっぱってきた健人くんが好きだ。

健人くんの姿勢を見て、アイドルってそういうもんだってインプットされてるSexyZoneが好き。お兄ちゃんたちの影響で、なんのためらいも衒いもなく「ジャニーズなので」って胸をはるマリウスが好き。

 

今年の6月の音楽番組で、同じグループなのに衣装に格差があることを司会の中居くんがツッコんでくれたとき、聡ちゃんは

かっこよさです!僕たちなりの

と答えてた。あの時期に、聡ちゃんが「かっこよさ」という言葉を選んでくれたことにはとても意味があると思う。

  風磨くんが先日のWebで三人体制時代のことについて、「かわいそうなやつなんて一人もいなかった」と言っていて、たしかにそうだったのかもなと思う。こういうことを、言わなくても済むのに言わないではいられない風磨くんが好きだ。 

かわいそうじゃなかったのは、風磨くんが三人仕事のときでも聡ちゃんマリちゃんの話を積極的にしてくれて、聡ちゃんとマリちゃんのがんばりが未来につながってるんだって示してくれようとしたことが大きいんじゃないかと思っている。どんな状況でも、かっこいいアイドルでいようとしてくれるSexyZoneが好き。カメラにソロで抜かれない日々が続いても、全力の笑顔でキラキラアイドルしてくれてた聡ちゃんが好き。 

 

この一年くらい、正直なところ、こんなに五人で出してもらえないなら、ジャニーズとかSexyZoneにこだわらないで別の形を選んだ方が本人たちにとってよいのかもって思ってしまった瞬間もあって、「絶対五人で!!!」って考えている私は足かせかもしれないと思うと応援することが怖かった。「五人が大好き!」って応援することが、重荷になってるのかなとか。

運営がセクゾン成長物語を作りたいなら、もっとわかりやすい試練を与えてくれればいいのに、とも思ってた。五人で五〇万枚CD売ったら継続、売れなかったら解散!とかさ。そしたらそれに向けて全力で動くよ?って。

でもそういうわかりやすいきっかけもないまま、なんとなく五周年でリスタート!っていう雰囲気になっていて、ずっと頑なに上三人と下二人って撮影さえ分けていたアイドル誌も、呪いが解けたみたいに急に五人で仲良しっていう記事ばっかりで、一体私は何と闘っていたんだろうかと思う。こうなることはいつから決まっていて、いつから五人に知らされていたのかな。

 

アイドルの一番大事なことは、いつも私の知らないところで動いて決まっていて、それを知らされて「ギャー」とか「キャー」とか言うしかできないんだなってあらためて思う。

落ち込んでいるときにおいしいものを一緒に食べに行ったり、悩んでるときに話聞いたり、抱えている仕事を手伝ったり。アイドルを応援するときには、普段まわりの大切な人に対してやるような、そういう手段は用意されていない。わたしの見えないところで行われる頑張りや選択を信じて応援することしかできない。その応援だって、本当にアイドルのためになっているのかわからなくなる瞬間もある。三人体制のCDを買うこと、五人が見たいと雑誌にハガキを書くこと。何が本当に正しいことかなんて、分からなかった。

 

でも、やっと今「カラフルEyes」を買うことは、私にとって正しい応援だと思える。勝利くんが雑誌のインタビューで、

僕はメンバーは自分たちで選んだんじゃないかと思えるほど不思議な縁を感じる

 と言っていた。勝利くんが、五人で活動することを望んでいること。今までも、ソロコンの衣装に「5」っていうモチーフがついてたり、セクチャンで五人でプリクラとれなかったことに泣きそうな顔してたり、勝利くんの想いはちょっとずつ伝わってきていたけど、今回のCDの特典映像ではしゃぐ姿を見たら、言葉以上にグループが大好きなことが伝わってきた。守るとかじゃなくて、自分の居場所として勝利くんが大切に思っている場所。

 

勝利くんの愛するSexyZoneが、私も好きです。

 

どんな状況でも一人一人が「ジャニーズとして」素晴らしいパフォーマンスを見せてくれたこと、絶対に誰もずっと「かわいそう」にも「かっこ悪い」にもならないでいてくれたこと、苦しそうに見える瞬間もたくさんあったのに、それを誰のせいにもしないで自分たちで選択したこととして背負い続けてくれたこと。本人たちに、ずっと救われている。どんなに永遠を誓っても、お互い未来のことはわからないから、だからこそ今日のこの気持ちを忘れたくない。

 

私は、彼らの頑張り・選択の一つ一つに口を出すことはできない。見えない頑張り・選択を信じて応援するしかない。でもこの応援が、ちゃんと届きますように。うまく言えないんだけど。

 

ということで、今から近所のCDショップに行って、今週最後の応援してきます。それしかできないからな!Show me your Love!!

 

カラフル Eyes(初回限定盤A)(DVD付)

カラフル Eyes(初回限定盤A)(DVD付)

 

 ↑「Welcome to Sexy Land!!」byマリウス。今回のMV凝ってます。セクゾンらしいファンタジーな世界観の街で、五人がそれぞれ彼氏目線でデートしてくれてます。メイキングもめっちゃ充実!!セクゾンといえば、ふまけん、聡マリという二大シンメ+絶対的センター勝利様というグループとして知られているかと思いますが、実は他にもけんしょり、ふうそう、ふうマリ、しょりそう、さときく、けんマリ、けんそう、しょりマリと五人五色の魅力だけでなく、コンビの組み合わせの豊富さも魅力的。そんな魅力が堪能できるのが、このA盤。きっとお気に入りのコンビが見つかるはず!

 

カラフル Eyes(初回限定盤B)(DVD付)

カラフル Eyes(初回限定盤B)(DVD付)

 

 ↑実はこのB盤の特典が一番オススメ!五周年突入記念イベントの様子や、今の五人からファンへのメッセージが収録されています。イベントで、五人のシルエットが映し出された瞬間のあの鳥肌たつ感じ!イベントをばっちり追体験できます。ふまけんがデビュー当時を振り返って完全にちびーずのパパママなのも最高。我らが皇子佐藤勝利さんのメッセージは、その部分だけでCD買いたいくらい。あのね、ほんといい歳した私が泣いたから!最高だから!騙されたと思って見て!

 

カラフル Eyes(初回限定盤C)(DVD付)

カラフル Eyes(初回限定盤C)(DVD付)

 

 ↑メンバー同士の素っぽいかわいいわちゃわちゃが好きならC盤!なんってたって「湯けむりSexyバスツアー」ですよ!バスの中でトランプして罰ゲームしたり、焼肉食べて五人でカラオケしたり、肌色のタオル一枚で温泉入ったり、浴衣でおでこ寄せ合ってお話したり…メンバーの私服も必見!お値段以上セクゾンすぎるよ!!

 

カラフル Eyes(通常盤)(CD Only)

カラフル Eyes(通常盤)(CD Only)

 

 ↑というか!今回曲もいいんですよ~。黒崎くんのいいなりになんてならないの主題歌とダブルA面!通常盤もジャケットが最高にかっこよくてかわいいし、なんと五人のうち誰かのめちゃめちゃかっこいいトレカがついています。セクゾン気になるけど、まだ誰担か決めていない方は通常盤のトレカで自分の担当するセクゾン占いをするのはどうでしょうか。誰の担当になっても、きっと幸せにしてくれるよ!!

 

他の記事でも聡マリについて語っています。↓

chocomintholic5.hatenablog.com

 

 

新春2015ジャニーズワールドけんしょりの美しさについていまさら語ってもいいですカッ

※この文章は、2015年1月の新春2015ジャニーズワールドについて書かれたものです。

先日少クラで今回のジャニワ新曲である「New day」が披露されて驚きました。もうジャニワ始まる季節なんだね。そもそもこのブログ、前回のジャニワに感動した私が、ジャニワについて語るためだけにつくったはずなのに、気づけばまともに書かないうちに一年経ちそう。はやいこわい。

chocomintholic5.hatenablog.com

実は今日、新しいジャニワを観てくるので、なんとなく去年の感想を読み直してたんですけど、パソコンのファイルから大量のポエミーな文章が出てくる出てくる笑。わたし前回のジャニワこじらせすぎではないか…。今日新しいジャニワを観て、去年の自分のジャニワ像がぶっとばされても、強化されても、それはどっちでもいいんですけど、 今書いとかないと去年のジャニワ狂の自分が浮かばれない気がするので、パソコンのなかで眠っていた文章を引っ張り出してみます。以下、新春2015ジャニーズワールドを新春ジャニワと呼びますよー。

 

  •   新春ジャニワのテーマ

新春ジャニワの大まかなストーリーは以下のようなもの。

  ミュージカルカンパニーの一員である(佐藤勝利演じる)「勝利」と(中島健人演じる)「健人」。ある日ショーのフライング中に「勝利」がセットに衝突する事故に遭ってしまう。「これ以上ショーを続けられない」と言う勝利に対し、ショー作りに心血をそそぐ(錦織一清演じる)「プロデューサー」は「Show must go on!」と説く。「プロデューサーは狂ってる!」と文句を言いながらも、一緒にショー作りを続ける二人。プロデューサーは、今までにない新しいショーを作るために二人を連れて人間の暦を越えた「十三月」を探す旅に出る。

 この「十三月」を探す旅は、一月のジャポニスム満載の和楽器ショーから始まり、タイタニック号沈没のシーンの寸劇、ヒンデンブルグ号事件、第二次世界大戦、オリンピック、十二月の源平合戦まで、月ごとに次々に場面が変わっていくレビューのようなもの。くわしい意味付けはここでは割愛するけど、プロデューサーのこれまでのショーのアイデアを集めたものだと考えられる。つまり、ショーの歴史をたどる旅でもある。重要なのは、ジャニーさんを彷彿とさせる狂気のプロデューサーがこの旅で「勝利」と「健人」に何を伝えたかったか。

旅の中で「勝利」には、「生きることの意味とは…」「生きるって何なんだ」という台詞が与えらてれていて、「健人」には「やっと分かりました!狂気の意味が!挑戦と冒険こそがショーを作るんですね!」という台詞が与えられている。このことから「勝利」は「生きること」を、「健人」は「ショーを作ること」をそれぞれプロデューサーから学び取る存在だと考えられる。この二人が旅の中で悲劇ばかりを描くショーに絶望し、傷つけ合い、悩みながらも、理解し合うようになる様を描くことで「新春ジャニワ」は、「生きること」と「ショーを作ること」がショービズの世界を生きる上で切り離せないものであることを描いているのではないか。

物語の終盤、勝利と健人ががっちりと腕を組み、シンメトリーなポーズでフライングする見せ場は、まさに「生きること」と「ショーを作ること」が表裏一体であることを象徴しているのだろうと思う。このように考えたとき「Show must go on!」という言葉は「生きている限りショーを作ることから逃れることはできない」「生きるためにショーを作り続けなければならない」という意味も持つことになるのではないか。

これが新春ジャニワのテーマであり、これは勝利と健人の、それぞれの見せ場の作られ方にもあらわれていたんじゃないかなーと思ってます。

 

  • 勝利の見せ場

新春ジャニワでの勝利の見せ場は、赤布フライング。この舞台の中でも最も美しいシーンだと思う。天井から吊るされた透ける素材の赤いベールのような一本の布につかまり、命綱なしで回転したり、姿勢をキープするかなり大変そうな大技。観客は勝利くんの生身の身体だけで作り上げられる美しさに見惚れる。完璧な顔、表情、髪、手足、おへそ…まるでどこか遠くの国の神話の中の美しい少年神のような姿でした。

勝利くんは現実の生身の身体だけで、CGを駆使した完璧なフィクションのような美しさで人を魅了する才能がある人だと思います。勝利くんの身体がそこに存在するだけでショーが成り立ってしまう人。

新春ジャニワのテーマによせると、勝利くんは真摯に生きていることが、すなわちショーになってしまう人なのだと思う。

 

  • 健人の見せ場

一方、健人の見せ場は、本人も少クラで言っていたように「三重人格」のシーン。一幕の中盤、唐突に源平合戦のシーンが始まり、「健人」であったはずの健人くんはいつの間にか「九郎判官」として平維盛軍と戦います。そこになぜかそのままの勝利くんが出てきて、健人を助けようとする。そして紆余曲折あり、「健人」演じる「九郎判官」は間違って勝利を刺してしまいます。

健人は勝利を傷つけてしまったという罪の意識から狂気にのまれ、「残酷な健人」「おびえる健人」「強い健人」という三つの人格に分裂してしまうのです。照明の色が変わるたびに、声や表情がくるくるとオーバー気味に変わる健人くんの演技は見ごたえ抜群でした。

ここで重要なのは、劇中ずっと「勝利」でしかない勝利くんに対して、健人くんが何重にも役を与えられているということです。健人くんは「健人」という役を演じる上にさらに「健人」として「九郎判官」を演じることになります。その上でさらに、三重人格を演じ分ける。何重にもフィクションを演じているわけです。でも、なんだかその時のセリフがやけにリアルに聞こえたのを覚えています。

健人くんを、SexyZoneを応援するようになってから、彼が弱音を吐く姿をほとんど見たことがありません。最年長であり切り込み隊長でもある健人くんは、人一倍重いものを背負っているように見えることもありました。でも、それをファンの前で吐露することをしない人です。全部終わってから、あの時は悩んでたけど今はもう解決したから心配しないでっていう人。この三重人格のセリフは、ジャニワというフィクションの中の、さらにフィクションの世界の「九郎判官」が犯した罪について「健人」が人格を変えながら発するものだから、決して健人くんの本音じゃない。でも、そのセリフの中に、演技の中に、リアルな健人くんを見たような気持ちになってしまったのは私だけでしょうか。健人くんが普段絶対に言わないような弱音を、劇中の「健人」が言っていて、それは役であり、セリフなのだから、何重にもフィクションのはずなんだけど、フィクションを重ねた先にこそ健人くんのリアルがある気がしたのです。

新春ジャニワのテーマによせると、健人くんにとってショーをつくること、すなわフィクションの世界の住人であることは、健人くんが生きる上で必要なことなんじゃないかって思います。 

 

  • 勝利と健人のシンメトリー性

あくまで健人くんのシンメは世間でも勝利くんでもなく、風磨くんだと思っているSexy人間なのですが、勝利くんと健人くんが「パートナー」というのはすごくしっくりくるなと思います。勝利くんと健人くんはショービズの世界を生きる上での「生きること」と「ショーをつくること」の関係が対照的な二人なのかなと思うので。

 少し前までは筋力が足りなかったせいか、静止画では少年神なのに、ダンスをすると幼さや可愛らしさが目立ってしまった勝利くん。でも昨年くらいから、ダンスも表情も格段にパワーアップして、動いても少年神という段階にお入りになられたように見受けられます。昨年のツアーでのGhostの時の表情も芸術の域でした。勝利様がアイドルとして真摯に生きてくれるだけで、何億もかけてつくられたCGよりもずっと美しい。生きることが、フィクションの上を行く存在なんです勝利様は。そこが、唯一無二だと思います。

 

健人くんはその逆で、フィクション性が生身の身体を生きることよりも上を行っている存在なのかなと思います。ファーストコンサートでの「ファンの皆さんは僕たちの恋人です」っていうセリフ、JMK、健人とケンティ、ソロコンでの「彼女」扱い。

健人くんが言うことって、冷静になるとたまーに薄っぺらく感じることもあるし、ファンタジーオブケンティワールドなんですけど。あまりにもあまりにもまっすぐ言い放つから、なぞの説得力があるんですよね。ファンタジーなんだけど、ファンタジーの密度が高くて、逆に現実よりもずっとリアルになる感じというか。フィクションだってわかってても、ケンティワールドに没入できるし信じられる。それが健人くんの唯一無二なところだと思います。

 

新春ジャニワで、勝利と健人を座長にして ジャニーさんが描きたかったものは、この勝利の「フィクションを越える生身の身体」と、健人の「生身の身体を越えるフィクション」の対比だったのではないかと思います。

そしてさらにプロデューサーから放たれる「Show must go on!」は勝利くんには「生きている限りショーを作ることから逃れることはできない」、健人くんには「生きるためにショーを作り続けなければならない」という意味でそれぞれ響いたのではないかと思っています。

そう、エンターテイナーとしての生き方が対照的な二人が、プロデューサーの教えを受け、それぞれの役割をつきつめて真のパートナーとなることで「ジャニーズ・ワールド」は完成に近づくのであった…(ここまで妄想にお付き合いいただき、ありがとうございます)

 

新春ジャニワは、舞台のテーマ、座長二人の関係性がそんな風に響き合っていて本当に感動的でした。

 

さて、今から帝劇に向かいます!一年弱前の文章なのに、読み返したら勝利くんと健人くんのことを「佐藤くん」「中島くん」って呼んでる自分に驚いた!とりあえず今は苗字呼びはしっくりこないから直したけど、直ってないとこもあるかもです。

 

中島健人くん、佐藤勝利くん、ちょっと遅れてしまったけど、ジャニーズワールド初日おめでとうございます。

二ヶ月の長丁場、無事に完走できますように。

二人が、仲間と共に、新しい世界を見せてくれることを心から楽しみにしています。

 

 

天国のチャンプたちへー『DREAM BOYS』を観てきたよ!〈1〉

9月13日(日)のソワレ観てきました!念願のドリボ優馬風磨マリウス版!風マリがほめられてるのが自分のことのようにうれしくて、ものすごいハイテンションで浮かれながら帝国劇場に向かった記憶があるのですが、なんていうかもう、期待以上でした!ドリボは初観賞でしたが、伝統ある『DREAM BOYS』という作品の奥深さがぶわーっと伝わってきて、かなり感動してしまった!涙のせいでよく見えなかったシーンがあるので、映像化本気でよろしくおねがいしたい。ドリボ自体のファンになったので、玉森千賀宮田バージョンや過去作品もめっちゃ観たいよ!!ぜひ映像化おねがいいたします!!!

 

とりあえずオープニングからマリウスくんのフライングの優雅さに「マリウスが!フライングしてる!帝劇で!いまこの瞬間!まじ王子!まじ理想の王子様!美!美!美!涙」と感極まり、最後までそのテンションだったので、正直優馬も風磨もマリウスも超よかった!っていう感想がすべてです。でも気づけば観賞時から一ヶ月以上経っている今も、帝劇のドリボは終わったけど僕のこころのドリボはまだまだ終わりません!という感じで、『ナカイの窓ゴールデンSP』での中居くんと佐藤アツヒロくんの話にドリボの世界を重ねて泣いたり、10月発売の雑誌での風磨くんの発言に胸がアツくなったりしている。

セリフとかシーンは覚えている限りのニュアンスなので、なんか間違っていたらぜひ教えてくださいませ!

 

 

  • 『DREAM BOYS』は、継承の物語

おさらいのために、パンフを参考に簡単にあらすじをまとめてみる。

 

幼馴染であり、ボクシングを通じて友情と絆を育んできたユウマ・フウマ・マリウスの三人。チャンプに輝いたフウマは、過去に自分が負けた唯一の対戦相手であるユウマとの再戦を望むが、ユウマは突然ボクシングの世界を去ってしまう。

実はユウマは、心臓病の弟ユウキの移植手術のために大金が必要だったのだ。半年後、チャンプフウマをモデルにした映画にユウマが主演し、プロデュースをマリウスがすることが決まり、三人は再び引き合わされることになる。 フウマは、ユウマとのボクシング対決を、映画撮影の条件として提示するが、フウマの身体はすでに…

 

ジャニーズ舞台のあらすじ、まとめるのむずかしいよね!笑。ここに謎の女リカとマダムとか、後輩ヤスイなんかが絡むんだけど、今回書くことにあんまり関係ないので割愛。

中山優馬くん演じる主人公ユウマと、菊池風磨くん演じるチャンプフウマはシンメトリー*1な存在。主人公のテーマカラーは赤、チャンプは青。ジャニ舞台には赤と青のシンメがよく出てくる。ボクシングもスポーツとはいえ興業の世界だし、すんなり主人公の映画主演が決まることから、二人ともボクサーとして芸能事務所に所属して活動してるのかな。ボクシングと映画の世界が地続きになっている。どちらもショービジネス(=ショービズ)の世界。

ドリボのテーマは、このショービズの世界を生きる二人の「継承」ではないか。フウマからユウマにショービズの世界で生きる者の精神が引き継がれる。なぜ、主人公の「すべて引き受けてやるよ!」と、チャンプの「仲間と過ごした人生、悔いなんかねえよ!」があんなに印象的なのか。それは、それぞれ二人のショービス人生の「はじまり」と「おわり」のシーンだから。

『DREAM BOYS』はボクシングの世界を生きる者の姿を通して、同じようにショービズ界を生きるジャニーズアイドルの「はじまり」と「おわり」の景色を私たちに見せてくれる作品なのではないかと思う。

 

 

 

 ユウマは、ショービズの世界ではなく「現実の世界」を一番にして生きている人。弟とのささやかな生活を守るために、あっさりチャンプとの試合を放棄してしまう。物腰が柔らかくて弟思いのユウマは、家族思いのイメージが強い現実の優馬くんそのものという感じ。特に、チャンプとの試合が決まったあと、マリウスや弟のユウキとおしゃべりするシーンがめっちゃ優馬くん。

 

マリウス:ユウマ、チャンプとの試合だいじょうぶ…?

ユウマ:大丈夫だと思う?見たでしょ?「手加減はしねえからな!(フウマのモノマネで。似てる)」 手加減してくれよぉ…

 

 ボクシングを辞めて半年経った状態で現役チャンプと試合するなんて、いくら弟を助けるためとはいえ、無謀すぎる。目の前の困難に対して冗談を言って周りを笑わせながら淡々と立ち向かうユウマ。優馬くんは今までもこうやってふりかかる大役を引き受けてきたのかな。今回のドリボの殺人的スケジュール(通し稽古たった1日だっけ?)にも「手加減してくれよぉ…」って言って笑いながら誰のことも責めずに立ち向かったのかな。

チャンプとの試合当日、ユウマの運命は一気に変わってしまう。映画に出資しているマダムの失脚を狙う者たちの策略により、ユウマのグローブの中から鉛の板が見つかるのだ。鉄拳に倒れて病院に運ばれるチャンプ。押しかけるマスコミ。急にユウマを責めたてる人々。

マスコミから身を隠すユウマにさらなる不幸が襲いかかる。弟のユウキが、チャンプの仲間であるヤマモトを誤ってナイフで刺してしまうのだ。ユウマはユウキをかばい、警察にまで追われる身に。

こんなスキャンダラスな事件が起こった映画だから、映画は世間から注目され、ヒットに近づくかもしれない。でも、その代償としてユウマは、さまざまな人の好奇の目にさらされることになる。実際には何一つ悪いことをしていないのに、大事な試合で反則行為をした上に傷害罪まで犯したというひどいイメージがつきまとう。弟思いの優しい兄優馬と、勝利のために残酷で容赦なく相手を傷つける悪党ユウマ。身を隠して逃げれば逃げるほど、どんどん現実の優馬と、世間のユウマのイメージが離れていく。これ、まさにショービズ界に生きる者の苦しみではないだろうか。他人から持たれるイメージが自分のコントロール下になくなってしまう恐怖。みんながSNSを使う現代では、私のような一般人でもなんとなく理解できる気がする恐怖。

 

ユウマの「すべて引き受けてやる!」というセリフと、赤幕を一気に引っ張って落とすという演出がとにかく印象的な一幕おわり。なぜこんなにこのシーンのユウマに惹きつけられるのか。それは単純にユウキの罪を引き受けるという意味ではなく、マスコミや世間によって勝手に作られていく自身のイメージを引き受けて生きてやると言っているからではないか。歌舞伎の振り落とし幕みたいな演出なんだけど、これ幕を下ろすっていうより、幕開け的な意味の演出だと思う。つまり優馬のユウマとしてのショービス人生の「はじまり」の瞬間。ショービズの世界で生きざるを得ない自分の人生を引き受けた瞬間。

二幕の最初におどろおどろしい謎のショーが続くのは、ショービズ界に生きる者の苦悩?…多分。よく覚えてないけど、お面を次々外していく変面とか謎の黒ローブ集団とか、なんかそれっぽい。本当の自分とは?誰が味方で誰が敵なんだ??みたいな。

で、そんなぐちゃぐちゃな世界を通り抜けて挑むのが大技「ゆうまわる」。ショービズの世界は成功と失敗が紙一重。ほんの少しのことで足を踏み外してしまうという厳しい世界。何度も足元やグローブを確認して、息を整えて、技に挑む優馬くんの表情。優しい青年優馬が自分の背負う運命を引き受け、ユウマとしてショービズ界を生きる覚悟をもつ、主人公の「はじまり」の物語。だから、ストーリーが進むごとユウマはどんどん帝劇の0番に立つのが似合っていくのです。最初からかなり似合ってるけどね!

 

 

 

  • チャンプフウマ=ショービズの世界から、現実の世界へ

 フウマは、現実を捨てて「ショービズの世界」を大切にして生きてきた人。「親兄弟も女も捨てて、食うもんも食わねえでチャンピオンになろうって覚悟じゃねえのか。そんなんだったらやめちまえ!」というフウマは、やっぱり現実の幸せを捨てて夢を叶えてきた男なのだよね。

そんなフウマの夢の世界を、少しずつ現実が侵食してくる。戦うことにかまけて、これまでおろそかにしてきた自らの身体。実はフウマの頭蓋骨にはヒビが入っており、どちらにせよ長く生きられない身体だったのだ。なぜフウマがあんなにも主人公との対戦を熱望したのか。それは、きっと自分の人生のおわりの前に、「ショービズ人生」の「おわり」を迎えたかったからではないか。死ぬときはチャンプフウマじゃなくて現実の風磨として周りの人達と過ごしたかったのかもしれない。

天国シーンの「最高の仲間と過ごした人生、悔いなんかねえよ!」というセリフ。ここでフウマが笑顔なのは、ショービズの世界だけを見ている孤高のチャンプフウマではなく、現実の世界の風磨としてユウマと接することができるから。アドリブは天国シーンだけなんだよね。ここで風isネタはずるい。かつてショービズの世界を生きる者として覚悟を決めてすべてを捨てる前のチャンプはきっと、風磨くんみたいに優馬くんの楽屋でいつも寝てたり、知らない間に優馬くんのお母さんと仲良くなってたり(ストーリー上ではそれマダムや…)、マリウスが「ふーまくんいるー?」って探しにくるような子だったんだろう。

 

 

 

  • マリウス=ユウマとフウマ、現実とショーの世界をつなぐ

マリウスは今回、観客に寄り添ってエスコートする役割だったと思う。「ユウマにもフウマにもどっちにも勝ってほしい!」「ユウマがそんなことするはずないと思うけど…」「リカさんがなんだか気になるな…」っていうセリフは、初めてドリボを観る私の心の声そのもので素直に「そうだよねマリウス!」って思いながら観た。ラスト近くの「本当に悪い人なんて誰もいなかったんだ!」っていうのもマリウスが言ってくれると、なんか「そうなのか?…そ、そうなのかも…まあそんな感じだよねー」って素直に納得できてしまう気がする。マリウスパワー。ストーリーをほぼ知らずに観た私は、お話の受け止め方をかなりマリウスに導いてもらった。

ドリボに限らずジャニーズ舞台って、役者がジャニーズアイドルであることを前提につくられていると思う。役名はタレント名をカタカナにしたものだし、だいたいショービズ界について描かれてるし、観客が演者のバックグラウンドをある程度わかっていること込みで作られている。だから観客が役の向こうに、演じているアイドル自身の今の輝きとか、背負っているものを二重写しで観ることで初めて成立する舞台だと思う。役を通すことで、背負っているものがより普遍的に生々しく伝わる気がする。

ストーリーの中で、ユウマ=現実を生きる人と、フウマ=ショーの世界を生きる人の仲を何とかつなごうとするマリウス。同時にマリは私たち観客が、現実のアイドルと、ショーの中の役を重ねて鑑賞するのを助けてくれる役割も担っていたのかなと思う。

これはたまたまだけど、マリウスだけ役名とタレント名が同じ(両方カタカナ)なのも、現実とショーの二つの世界をつなぐ役としてよくできてるなって妄想した。

 

 

 

 

  • なぜボクシンググローブと心臓を渡すのか

ボクシング対決を機に、ユウマのショービズ人生がはじまり、フウマのショービズ人生がおわる。私が「ドリボって継承の話なんだ!」って思ったのは、フウマの病室シーン。フウマに憧れるユウキがお見舞いに来たとき、弱音をはくユウキに、自分がタイトルを獲ったときのグローブをプレゼントするフウマ。

 

ユウキ:ぼくもフウマみたいにチャンピオンになりたかったなぁ

フウマ:おまえの周りにはおまえの夢を叶えたがっているやつがたくさんいる。マリウスも。ユウマだって。

 

ユウキが帰ったあと、病室を訪れたマリウスにすがりつくフウマ。。

 

フウマ:ユウマを助けてやってくれ、マリウス。おまえにしかできないんだ…

マリウス:ボクにできることは何でもするから。今は休んで?

 

そして、主人公との思い出の曲である『DREAM BOYS』を口ずさむ。

 

 終わらない夢を描こう 雨の日も風にも ずっと

 

この歌声で継承の話だって、確信させられた。病床のフウマの歌声は、少し音が外れていて、かすれていて、とぎれとぎれ。やっぱり身体相当悪いんだ。でもそこまでして伝えなきゃいけないことがフウマにはあるんだ。

どんな世界でもチャンピオンになれるのはたった一人だ。一人がチャンピオンでいるためには、たくさんの人たちの支えがあったはず。そして、チャンピオンに負けた人たちの数え切れない挫折があったはず。頂点の景色を知っているチャンプだからこそ、そこに到達するまでにたくさんの犠牲を見てきている。そうやって自分のかわりに犠牲になったたくさんの人の夢を背負って、たくさんの夢の残骸を踏みしめて、フウマはリングに立ってきた。

 風磨くんに限らず、誰かがデビューするってことは別の誰かがその夢を諦めることかもしれなくて。誰かが美しくフライングするためには、その何倍も支えてくれる人が必要で。一人がステージで輝くためには、ものすごい数の支えと犠牲がある。

ドリボ前の8月のレコメン(文化放送のラジオ)でジャニーズのデビューについて風磨くんはこんな風に言ってる。

 

終わりなき戦いですね。人生を賭けた勝負ですね、これこそましゃに。(本人の発音ママ) 

 

めっちゃカッコイイこと言ってんのに最後で噛む風磨くん笑。

たくさんの人の夢を犠牲にして、背負って、ステージに立つ「人生を賭けた勝負」は、私には想像できないくらい苦しさをともなうものだろう。でも、それ以上に選ばれた者にしか味わえな素晴らしいものなのだろう。ガムシャラのスペシャルでそんなことを言っていた子がいた。それをフウマは、風磨くんは、知っている。だから自分の夢が終わるまえに伝えなきゃいけないことがある。風磨くんの場合、たまにその苦しさにもがく姿を隠さなすぎて「おいコラ!」ってなるんだけども…。フウマが「悔いなんてねえよ!」と言うことで、たくさんの道のなかでアイドルという道を選んだことに風磨くんが本当に後悔しないでいてくれそうに見えて、多分それが一番うれしくて泣けた。

 

フウマが病室で亡くなったあと、ユウキを助けようとしてユウマは崖?みたいなところに登って転落し、意識を失う。仮死状態になって天国の門の前で再びフウマに会うのだ。そこで自分の心臓の入った小箱を渡すフウマ。ユウキの病気の治療ための心臓。

これは、ハート=ショービスの世界を生きるための心をフウマからユウマに引き継ぐシーンでもあるのだと思う。フウマは後に残る者たちに、ボクシンググローブと心臓を、引き継ぐ。

 

ジャニーズって、先輩から後輩に衣装が引き継がれる。タグに「木村」って書いてある衣装が取り合いになったとか、Mステ出演時の衣装は○年に嵐がコンサートで着てたやつだ!とかよく話題になる。後輩たちは先輩の衣装を着てバックで踊ることで、先輩の背中を見て徐々にジャニーズとしての精神を学ぶ。あんな風に夢を叶えたい、あの一番前の景色を見たいと憧れて、夢をつないでいく。だから、フウマは夢の継承に必要なボクシンググローブと心臓をユウキとユウマに渡すんだと思う。やっぱりドリボってボクシングを描いているようで、ジャニーズを描いている話だ。

 

 

さて、あまりに長くなってしまったので、ここまででエントリを二回にわけます。後半は、SMAPとかジャニーズ全体の話をドリボとからめて書くつもりです。後半アップしたらエントリ貼りますねー。長々と妄想話にお付き合いいただき、ありがとうございました!後半の方が短くて面白い予定ですので!多分!笑 これに懲りずまた読みにきてくださったらうれしいです。

 

 

 

DREAM BOYS [DVD]

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*1:ジャニオタがよく使う言葉で、ステージで左右対称の振り付けを踊る二人組のこと。ジャニーズ舞台では、振り付けだけでなく、性格やストーリー上の役割が対照的な二人組が描かれることが多い。以下シンメ。

『ドリアン・グレイの肖像』を観てきました。ー中山優馬はなぜ美しいのか、あるいはプリンスチャーミングの孤独について

中山優馬くんの主演舞台『ドリアン・グレイの肖像』を観てきました。9/4(金)のソワレ、東京凱旋公演です。もう全公演が終了しているので気にする方は少ないと思いますが、念のためネタバレありますのでご注意くださいませ! 

舞台 ドリアン・グレイの肖像 <オフィシャルサイト> 主演:中山優馬 徳山秀典 舞羽美海 仲田拡輝 金すんら

 

オスカー・ワイルド原作のこの作品は19世紀のロンドンが舞台。圧倒的な美しさを誇るドリアン・グレイという美青年が、自らの肖像画に「この画のような若さを永遠に保ちたい」という祈りを捧げたことが、悲劇の始まりとなります。彼のこの祈りが天に通じたのか、ドリアン本人は見た目が二十歳のまま、かわりに肖像画が醜く歳を取っていく…という不思議なストーリー。

 中山優馬くんが美青年貴族役!しかも、美しすぎるがゆえの悲劇!絶対これ私の好きなやつじゃん!と公演が発表された当初からかなり楽しみにしていました。実際、オーソドックスなストレートプレイがそんなに得意ではない私でも、かなり心が動かされた舞台だったので、ちょっと何に感動したのか、書いておこうと思います。

 

  • アイドル中山優馬が「ドリアン・グレイ」を演じる意味

優馬くん演じるドリアン・グレイは人々に「プリンス・チャーミング」と呼ばれています。雰囲気で日本語にしてみると「魅力の王子」という感じでしょうか。ドリアンが人々を魅了するのはその美しさゆえであり、ドリアン自身が自分の美しさは「若さ」と切り離せないものだと考えている。つまり「魅力の王子≒若さと美しさの人」という位置づけなわけです。「魅力が実力を凌駕する人」とアイドルを定義づけたのはライムスター宇多丸さんだった*1記憶していますが、生まれながらにして圧倒的な美しさに選ばれたドリアンはある意味アイドル的な存在として描かれていると言えるかもしれません。

個人的に最近、アイドルが(比喩的にでも)描かれる作品には「救い」を求めてしまいがちです。平たく言うと、アイドル(的な人)に最終的にはなんとか幸せになってほしい!と思ってしまうんです。でも、ドリアンが「若さ」という期限のあるもの信望しているのならば、いつかそれを手放さなくてはいけなくなるとき、ドリアン・グレイは絶対に不幸になってしまう。これは近年の特に女性アイドル界隈の卒業や劣化(とすぐ騒ぎ立てられる)問題とつながっている主題だと思っていて。だから今回『ドリアン・グレイの肖像』がアイドル中山優馬くん主演で舞台化されるにあたり、「若さと美しさ」に対抗する価値観が描かれるんじゃないかと期待して観に行きました。オスカー・ワイルドに現代的な批評性をもたせるためのキャスティングなのかなと。だって優馬くんが所属しているのは「若さ」に対抗する価値観を打ち出し続けて、奇跡的にアイドルの寿命を延ばしているSMAPさんのいる事務所なんだもん!

 

  • 「若さと美しさ」に対抗しうるもの

そんなとてつもない個人的な思い入れを持って観に行ったせいで、最初は少し期待はずれだったかな…と思ってしまいました。だって、「若さと美しさ」に対抗する価値観が全然描かれない。

たとえば、ドリアンが恋をしまう大衆演劇女優のシビルは、ドリアン自身が彼女を褒める言葉を借りれば「センスと才能」の人。でも彼女は、ドリアンと恋に落ちた瞬間からまったく演技ができなくなってしまう。「本物の恋を知ってしまうと、舞台での演技なんてウソの感情でしかない」というようなセリフのとおり。自分の「センスと才能」を失ってまでドリアンを求めたシビルでしたが、ドリアンが愛したのは女優として輝く彼女。婚約までしたにも関わらず、演技ができなくなったシビルを拒絶するドリアン。絶望して服毒自殺するシビル。「若さと美しさ」の前では、「センスと才能」は何の価値も持たず、迷わず捨てられるものなのです。

(そういえば、友人のヘンリー卿にシビルとの仲をひやかされたドリアンが「彼女は神聖な存在なんだ。僕にとって彼女に触れるというのは、毎日彼女の舞台を観に行くということなんだ」と言う場面があって、ああこれなんてわたし…なんてジャニオタ…と思ったのは秘密。余談でした。はい。)

もうひとり、舞台の冒頭でドリアンの肖像画を書いてくれた画家のバジルは、ドリアンの美しさだけではなく、こころの純粋さも評価してくれた人。彼は「若さと美しさ」に固執し、いつまでも二十歳の見た目のままのドリアンを心配し、忠告してくれるんですが、あっさりドリアン自身によって殺されてしまう。しかもドリアンはバジルの遺体を何の痕跡も残さず消すように友人の科学者に頼みます。ドリアンとバジルの友情、そしてバジルの信じていたドリアンのこころの純粋さえ、「若さと美しさ」の前では何の価値もないものとして消し去られてしまうんです。 

そもそも、ドリアン・グレイという人物がなぜ「若さと美しさ」だけに固執するのかもほとんど描写されません。ドリアンが「若さと美しさ」しか持たない人物だったら自分の価値=「若さと美しさ」と思ってしまうのもわかる。でもドリアンは、お金も地位も教養もある貴族青年であって、しかも周囲の反対を押し切って大衆演劇女優シビルと婚約してしまうくらい、恋のためにすべてを捨てられるこころの純粋さも持っている。

だから、ドリアンの行動に納得できなくて、やっぱり、少し期待はずれかな…と思っていたんです。第二幕が始めるまでは。

でも、そうじゃなかったんですね。第二幕でわたしは、ドリアン・グレイの、いや中山優馬の美しさに五連続平手打ちくらいの衝撃をうけます。

 

ドリアンがなぜ「若さと美しさ」こだわるのか分からない…そんな感覚が変化したのがいつなのか、明確には思い出せないのですが、気づいたらわたしは双眼鏡(近いけど一応持ってきてた)を取り出して、ドリアンを、優馬くんを見つめていました。なんて美しい人なんだろうと。いや、お顔がキレイなことは前から知ってたし、わたしがわざわざ言わなくてもみんな知ってると思うんですけど、なんていうかそういうのじゃなくて。

二十一歳の中山優馬くんの美しさがあまりにも圧倒的で、ずっと見ていたくて、今この瞬間にわたしがこんなにも魅了されているということが、すべてなのだと思いました。生まれながらにしてすべてをもっているドリアンが「若さと美しさ」に固執する理由も、対抗する価値観が描かれないことも、中山優馬という存在で全部納得させられました。あなたがいま僕から目が離せなくなっているのが、すべての理由だよって優馬くんはセリフじゃなくて存在で語っていた。

多分、美しいことに理由なんてなくて、若さや美しさに惹かれてしまうことにも理由なんてなくて。そんなオスカー・ワイルドの、現代からするとぶっとんだ価値観を舞台の上で支えていたのは、他でもない中山優馬くん自身の「若さと美しさ」だったと思います。

 

  •  プリンスチャーミングの孤独 

ドリアンは「若さと美しさ」のためにほかのものを犠牲にするとき、必ず鏡を見ているのが印象的。鏡にはドリアン自身の目で見たドリアンが映っています。そこに映るのはいつまでも若く美しい自分。

一方で自分の罪の意識に悩むときには肖像画を見ている。肖像画は、他人から見たドリアンの姿です。その肖像画は、どんどん醜くおぞましい姿に変わっていく。

 生まれながらにして圧倒的な美貌に選ばれてしまった人の、誰とも共有できない孤独。ドリアンは最終的に自らの美貌と心中するような最期を迎えるのですが、最後の最後まで誰にも共感や同情を求めない。

その孤独と気高さが中山優馬くんの美しさによってとてもリアルに感じられて、だからこそ救いがなくて、この世界の誰にも絶対にドリアンを救うことはできないのだと思ったら、最後のシーンでは泣けてしまいました。

美しさゆえの孤独と孤独がひきたてる美しさ。

もっと平凡に生まれていたら、味わうことがなかっただろう孤独。友達や家族がいるとかいないとか、そういうことじゃない孤独。ドリアンの孤独が、アイドルと呼ばれる人たちの、選ばれし人がゆえのとてつもない孤独と重なって、余計泣けました。幸せになってほしい、とか寝ぼけたこと言ってんじゃねえよ、そんな同情求めてねえよ、と優馬くんにビンタされた気分でした。

 

  • アイドルが外部舞台に出演するということ

ジャニーズに限らず、普段アイドルとしての活動をメインしている人が、外部舞台の主演をつとめるときって、批判的に見られがちな気がします。舞台俳優さんというのは、それっぽい表情や台詞回しができればよいだけではなく、訓練された身体を持つ方が多いからです。アイドルはステージでファンを魅了するプロではあっても、発声とか身のこなしとかどうしても差が見えやすくなってしまう。一方のアイドル側も、舞台出演を積み重ねて舞台俳優としての実力をつけているわけではないのに、集客力を見込まれて主演に据えられて葛藤することも多いのではないかと思います。(わかっていると思いますが、優馬くんがそうであると言いたいわけではありません。)

でも、今回のドリアン・グレイを観て、アイドルが外部舞台に出演する意味が、なんとなくわかった気がしました。

こころの美しさゆえに「若さと美しさ」に固執し、悲劇を起こすドリアン・グレイのリアリティは、やはり優馬くん自身のイノセント感というか、ある種のまっさら感によって支えられていたからです。うーん、まだこのへんをうまく言葉にできないのよね。また言葉が見つかったら、加筆します。

でも、アイドルが外部舞台にたつときの、その独特の存在感をこれからきちんと言葉にしていきたいなあと思います。

 

『ドリアン・グレイの肖像』本当に観に行ってよかった。中山優馬くん、ほかのキャスト・スタッフのみなさまもおつかれさまでした!

 

最後にまたまた余談ですが、演出で優馬くんが客席に降りる瞬間があるのですが、そのときも観客は優馬くんの方を見るのではなく舞台上のシビルに注目していて、客席のマナーがとてもよいなと思い、ジャニオタ以外の観客が多いのかなと思っていました。でも、カーテンコールで三回目に優馬くんが出てきたとき、お辞儀だけじゃなく両手をあげて客席にお手ふりした瞬間、客席がすごいフニャって顔になって優馬くんに手をふり返していて、あーみんな、外部舞台だから、優馬くんが恥をかかないよう、すごく気をはって観劇してたんだなあと。そういうの素敵。なんか優馬ファンさんというか、ジャニオタへの愛しさがこみ上げて、一瞬で現実に戻ってこれました良い意味で。

 

実はこのあと数時間後に、中山優馬菊池風磨マリウス葉くんの『DREAM BOYS』を観てきます。評判がいいようで、ものすごく楽しみ。ジャニーズ内部舞台の優馬くんをみるのが初めてなので、なんとしても外部舞台のドリアングレイの感想をまとめたくて、慌ててこれ書いています。でも優馬くんの素晴らしさを表現するにはまだまだ言葉が足りないなあ。ドリボ観終わったらまた何か思うことがかわるのだろうか。はあーほんと、楽しみだなあ。いってきます!

*1:『マブ論』参照のこと

人形たちはアイドルの夢を見るか? ―菊池風磨ソロコンが超楽しかったよ!―

さあさあ書きかけのエントリを全部ぶっちぎって菊池風磨ソロコンサート『風 is a Doll?』のお話をするよ!セトリとか詳細は他のブログにお任せして、超個人的に思ったことを好き放題書くよ!!なぜか映画『マッドマックス4』のネタバレもあるから注意してね!あと、ぐだぐだ言わず「楽しかった」でいいじゃん語り厨消えろ!って方も自衛してくださいませね♡

togetter.com

決して風磨担が多いわけではない私のTLが、上のまとめみたいになった風磨ソロコン初日の8/2。こんなにハードルあげられて大丈夫かよと思いながら、8/4に参加したのですが…。

 

 

 

 

 ハードルあげられても「全然大丈夫だったよ!!!」

 

 腕振り上げて踊ってすっごい楽しかったし、風磨くん歌うまいし、コントおもしろいし、甚平かわいいし。

ここ最近のSexyZoneのコンサートは、会場に「答え合わせ」をしに行っているような感覚が強かったのです。五人は最高なのだけど、ちょっと演出がアレなところがあって、事前にある程度レポで見たいところと見たくないところを確認して「あ、今日もツムツムあってよかった…かわいいとこ見れて行った意味あった…」って安心するような。いやもちろん、「健人くんキラキラすぎて目が離せない…」とか、毎回予習をよい意味で裏切ってくれるものがあるから、SexyZone好きでいるんだけども。

でも、今回の『風 is a Doll?』は、何かを見られた/見られなかったで良い悪い判断するようなものではなく、参加しているファン一人一人がその場の一員としてコンサートを盛り上げようとしていて、それは風磨くんを助けたい!みたいな感じじゃなくて、勝手にそんな気持ちにさせられるコンサートだったんですよ!

 

  •  “風 is a Doll?”とはいったい…

 ソロコンタイトルが発表されたときは「"風 is a Doll?"って、おいおいふうまちん、大学生にもなって、まだ中2病かよwww」ってにやにやしてたのですが、会場では別の意味でにやにやしました。 

舞台はたぶん近未来。人形たちの決起集会というコンセプト。このままではガラクタとして一緒くたに捨てられてしまう人形たち。「人間になる」という夢をかなえるためには人間の心が必要。そこで8人(8体?)の人形たちは「風 is a Doll?」という盗賊団を結成し、恋心を盗むことを誓い合う…みたいなやつです。

 

え?くわしく説明されてもめっちゃ中2病じゃんって?いやいや、あのね風磨くんが盗賊団のリーダーなんだけど、バックについてくれた安井くん、樹くん、半澤くん、増田くん、萩谷くん、真田くん、美勇人くんがみんなスタイルよくて、ダンス上手くて、ちょっとだけワルそうで。あるんですよ説得力が!風磨くん作詞の『Party up!』で一人一人Jrマンションから登場するときも、照明の加減でシルエットだけになる瞬間があったり、他の仲間につなげるダンスだったりで「盗賊団」としてサマになってて、片手だけはめた指出し革グローブもお似合いでね。常々アイドル曲って曲自体の良さ以上に、コンサートでのビジュアルも大事だと思ってるのですが、このオープニングの『Party up!』のビジュアルが最高だったので、ああもう今日は楽しいんだろうな…って予感でいっぱいになりました。

そんでその後も、オテンキのノリさんが考えてくれたコントに大爆笑し(8/4、1バル最前にいらっしゃってましたノリさん。個人的に増田くんの「宇宙人になりたい」がすごい好き。楽屋で生まれた樹くんの「ちょっと六本木について説明した後、未成年?の設定なんでウィンウィンウィン」も含めw)、会場みんなで大合唱し、タオル振り回して大暴れし、と超楽しかった(表現力が乏しくてごめんね)。知らない曲があってもとりあえずふうまちんが煽ってくれるままにぶんぶんペンラ振り回してれば楽しいから置いてかれない。

今回、第2バルコニーでアリーナ見渡せる席だったのですが、ファンサをもらおうとしてる子があんまりいなくて、みんなペンラだのタオルだの振り回してて、幸せな空間だなーって思いました。個人的にはアイドルの認知やファンサを全面否定はしないのですが、過剰なファンサもらい合戦がそれ以外のファンたちのノイズになってコンサートを楽しみきれなくしている現状はちょっとどうかと思ってたので、風磨ファンみんな最高かよって思いました。

そんなこんなで、仕事終わりの格好のまま恥ずかしいくらい汗だくで、知り合いに見られませんようにと祈りながら電車乗ったのですが、帰り道、なんかこう、すごく希望が湧いてきたんです。バカみたいなんだけど。

言語化、うまくできるかわからんけど、ちょっとやってみようと思うよふーちゃん!

 

  • ガムシャラサマーステーションにおもうこと 

風磨ソロコンの数日前、六本木のEXシアターに『ガムシャラサマーステーション』を観に行きました。大好きな松島聡くんとマリウス葉くんのパフォーマンスが期待以上で大変興奮したのですが、もう一つ興奮したのがJrくんたちのパフォーマンスバトル。私が見た日は、チーム武vsチーム羅の対決。

 

 煌々と照らされたパフォーマンスステージの中で、ファンへのアピールもそこそこに、心を通わせてパフォーマンスを成功させることに集中する選抜チームメンバーたち。

そして、それを薄暗いセットの高みから見下ろして応援するちびJrたち。

 

今回スタンディングではなく、初めて指定席で入ったからなのか、このバトルの雰囲気があまりに非現実的で、もはや退廃的な感じすらあって、ここは近未来SF的な少年隔離施設なの!?と思って、ドキドキしました。ちびJrたちがおそろいの白Tシャツ白パンツなのも、なんだか施設の制服っぽくて。

 

……「ガムシャラバトル」とは六本木の地下にある少年隔離施設で夏の間だけ行われるイベントである。施設の中で実力をつけた者たちが選抜され、チームを組んで、バトルを行う。観ている者をより多く魅了して勝利したチームには、その隔離施設から脱出する未来が与えられるかもしれない。少年たちは、この世のどこかに「約束の地」があると、夢見ている。バトルを制して施設から出られれば「約束の地」にたどり着けるのだと…。

 

パフォーマンスバトル見ながら、こんなナレーションを勝手に思い浮かべてました。「約束の地」っていうのは、映画『マッドマックス4』の「緑の地」のイメージ。たどり着けば、「人間」らしく幸せに自由に暮らせる場所。

「風 is a Doll?」を見ていて、この盗賊団って六本木の少年隔離施設から脱走してきたんじゃ…とも妄想しました。(真田くんはガムシャラ出てないけど)*1

 

 『マッドマックス4』は核戦争後のあらゆる資源が枯渇した世界が舞台。イモータン・ジョーというカリスマ独裁者が宗教的に群集を支配しており、人はみなジョーの所有する「モノ」として扱われている。そこで立ち上がるのが、フュリオサという女戦士。*2子産み女として軟禁されていたジョーの妻たちを連れ出し、まだ汚染されていない資源が豊かな故郷である「緑の地」を目指す。

 

 

  • 希望を餅続けること

今のアイドル、というか若手ジャニーズの現状を『マッドマックス4』の世界に重ねると、四方から槍を投げられそうなんだけど、「みんなが見るドラマ」も「みんなが聴く音楽」もない今って、アイドルにとって荒廃した砂漠を生き抜くみたいに過酷な世界なんじゃないかといつも思っています。特に、若手ジャニーズが先輩たちのように売れようともがくことは、存在しない「緑の地」「約束の地」を目指して突き進むのと同じなのではないか。

世界がどこまでも汚染されていて「緑の地」なんてもはや存在しない残酷な現実を知ったフュリオサのように、Jrの子たちがSexyZoneのままならない現状を見て、デビュー=「約束の地」ではないと絶望しないのだろうか、とも思っています。

そのあるかもわからない「約束の地」を目指す少年たちの輝きで熱気を保つサマステってやっぱり近未来SFの退廃的な世界観に通じるものがある…。(デビューがすべてではないだろうし、他の男性アイドルに比べてジャニーズ事務所はまだ恵まれているのだろうと思いますが)

 

風磨くんは、16歳という若さで自分よりさらに若いメンバーと一緒に期待のグループとしてデビューして、希望もたくさんあっただろうけど、その分「約束の地」なんてない現実をたくさん見てきたんじゃないかと思います。

でも、『風 is a Doll?』からは、風磨くんがジャニーズにちゃんと希望を見出していることが感じられた。それが現実逃避の夢物語なんかじゃなくて、しょっぱい現実の中でもアイドルをやっていくんだっていう決意表明に見えました。

 

  • 風磨くんの新しい武器

風磨くんはきっと今回のソロコンにあたって、自分の武器は何かってことに死ぬほど向かい合ったのではないかと思われます。本人も「中島ァがいなかったらこんなに頑張れなかった」というようなことをよく言っていますが、中島健人が永遠のライバルという人生はプレッシャーがすごすぎて考えただけで吐きそう。

風磨くんの武器。多くの人が予想したように、それは「歌唱力」と「仲間」でした。バンドなど普段やらない形式も含むボーカリストとしての表現と、7人の愉快な仲間たちとのひと夏のストーリーが風磨コンの一番の魅力でした。

 

一方で、今回わたしにとって予想外の武器も見つかった気がしています。

菊池風磨の圧倒的な武器。それは「教養と知性」。

ふうまくん、クイズ番組ではあんまり活躍しないけど、やっぱりめちゃめちゃ賢い子!ここでいう「教養と知性」は学校のお勉強できるできないとは関係ないやつ。

「教養」とは、ジャニーズ文化を自分の中に蓄積し、研究する力。ファンを喜ばせる最高のセットリストも演出も蓄積がなければ生み出せません。

「知性」とは、その研究をパフォーマンスに落とし込んでいく力。自分の求められていることと、やりたいことをすり合わせて、それを周りのスタッフや仲間に伝えてかっこいいジャニーズを再現する力。

風磨ソロコンのバックが風磨くんの仲良しばっかりだとわかったとき、正直イケメン兄ちゃんたちウェーイな内輪ウケコンサートになるのかなーと思いました。多くの人が思ったかもしれない。

でも、蓋を開けてみたら全然違った。風磨くんは自分のもともとの武器の「歌唱力」と「仲間」を、最新鋭の「教養と知性」という武器できちんとエンターテインメント化してくれた。アイドルのプロでした。

私は、今回のソロコンがSexyZoneの世界観とまったく違ったものだったこと=風磨くんのやりたいことが SexyZoneではできない、ということではないと思ってます。

 むしろ、ジャニーズ文化の継承者「SexyZone」として選んだものなのではないかと思うのです。ジャニーズの文化の中で中島ァや他のメンバーが「できないこと」「選ばないこと」をつきつめて考えた上でのセトリや演出なのではないか。すっごく自由にセトリも演出も仲間も選んでいるように見えて、SexyZoneの一員として自分がジャニーズ文化の中で継承すべき部分を、風磨くんはわかりすぎているのだと思っています。

風磨くんの発言ですごく好きなのが、今年の春くらいの日経エンタの「SexyZoneってジャニーズの文化そのものだと思うんです」(ニュアンス)っていうもの。

中島ァと二人で、いやSexyZone五人で、「ジャニーズという文化を継承していくんだ」っていう自負を感じます。

しかもそういう気持ちを、決意を、難しい言葉で伝えるんじゃなくて、10歳の女の子にも伝わるようにパフォーマンスに落とし込んでくれたのが、本当に天才。アイドルの天才。

だからね、ラスト近くのTOKIOの『リリック』から、風磨くん作詞の『20-Tw/Ntyー』で泣きそうになりました。

 

言葉だけじゃ伝わんないから唄うよ

 

歩んだその先に 僕の夢の続き 必ず見せるから 

こういうメッセージを体現していたパフォーマンスであり、歌でした。

 

映画『マッドマックス4』の荒廃した世界で、唯一の希望は、フュリオサの仲間が命に代えて守ってきた大切な植物の種子。これを植えて私たちが新しい世界を作るんだって、イモータン・ジョーの砦に向かっていきます。その中でそれまで「モノ」として扱われていた妻たちは、一人ひとりが新しい未来のために、自分の武器を活かして戦い始めます。それが「モノ」じゃなく「人間」でいるということ。

 「風 is a Doll?」盗賊団も、決起集会が進むうちに「心は奪ったり、与えられたりするものじゃなく、音楽を通じて徐々に感じていくものなんだ(ニュアンス)」って気づくんだけど、きっと誰かから認められてデビューしたら「アイドル」とか、CDが売れたら「アイドル」じゃないんだよね。そういう与えられるものじゃなくて、世界が砂漠だろうと向かい風だろうとなんだろうとファンのことを考えて自分の武器を磨いて理想の未来に向かって戦い続けるその現在進行形の姿を見せ続けることが「人間になる」ことであり、それが風磨くんにとって「アイドル」であることなんじゃないかって思います。

なんか、ふーちゃんのエモさに感染したみたいなんだけど、どうしてくれよう。

 

 ジャニーズアイドルのSexyZoneがすごく好きだから、ジャニーズ大好きな風磨くんほんとサンキューな!『F』にも書いたけど、五人がそれぞれジャニーズ文化を愛する高潔な継承者を背負ったSexyZoneがめっちゃかっこいい。

 

ということで、昨夜コンサートから帰ってから遅くまでこれ書いて、仕事して、また今これ書いてアップしようとしている。睡眠不足だけど、明日お客さんとの打ち合わせで居眠りしないように気をつけます!せっかくなのでもうちょっとタイトルともひっかけて書く予定だったんだけど、結局タイトル倒れだし、情熱のままに好き放題書いてごめんね!後日興奮が落ち着いてから、もう少しわかりやすくなるよう文章手直しするかもしれません!

菊池風磨くん、初のソロコン大成功おめでとうございます!

 

※手直ししたいのはやまやまですが、整理してしまうと、せっかくのエモさが失われてしまいそうなので、エントリ更新後のつぶやきを貼っておきます。

 

「マッドマックス 怒りのデス・ロード」オリジナル・サウンドトラック

「マッドマックス 怒りのデス・ロード」オリジナル・サウンドトラック

 

 

他のジャニーズのコンサート関連の記事です↓

chocomintholic5.hatenablog.com

 

 

*1:風 is公演後、真田くんもガムシャラ参戦してましたね。さなじいバンドのレポがほほえましくて、毎日楽しみでした。 

*2:チーム羅のパフォーマンスの時に嶺亜くんがちびJrの方向いて「もっと来いやっ!!」って拳振り上げて煽ってて、ちびJrたちも「うおぉぉぉぉお!嶺亜さまぁぁぁあ!!」ってやってるのにも、出陣式でウォーボーイズ煽るフュリオサをめっちゃ感じました。私も「嶺亜さまぁぁぁあ!!」ってやりたい。あれ、これ注に書くことじゃない?

阿久津愼太郎さん(七五三掛担)の男性アイドル論がすごいので、「二・五次元」特集のユリイカ読んでください。

目次にジャニーズ、宝塚、歌舞伎とあり、私得過ぎる…と思ってひと月くらい前に購入した『ユリイカ総特集「二・五次元」』。読んでみたら、二・五次元舞台作ってる人・演じてる人・観てる人がみんな熱くて、今二・五次元舞台の現場に行ってみたい気持ちでいっぱい。原作好きなので、ハイキューは絶対行きたいけど、チケットとれるのかな…。

 

この特集の中で個人的にダントツ面白かったのが、阿久津愼太郎さんと少年アヤちゃんの対談。ジャニーズについて考える上で刺さりまくる内容。もう(男性)アイドル好きな人には全員読んでほしい!配って回りたい!ってくらい。

 

阿久津くんは、自身がD-BOYSとしてアイドル俳優的に活躍されつつ、DISH//など男性グループの現場にも通うアイドルオタク。阿久津くんのことは去年のユリイカの総特集「イケメン・スタディーズ」のインタビューで初めてちゃんと知ったのだけど、その時からすでに漫画やBLについて熱い持論を展開していて、「初めて見た魔女っ子が『カードキャプターさくら』だったのは、いま考えてもいまの僕のアイデンティティの一部になっていますね。」とか言ってて面白い子だなあと思った記憶がある。あらためて読み返してみると、去年の時点で「百円のものを千人に売る一般受けの人と一万円のものを十人に売るヲタク向けの人がいて(略)僕自身はヲタク向けの部類ですかね(笑)。」とかなり濃い話してた。 

ameblo.jp

阿久津くんは、自分を取り巻く状況を現在進行形ではっきり言語化できるすごい人だと思う。状況をわかってる子は他にもいるかもしれないけど、言葉にできる知性と、言葉にする責任を引き受ける勇気がすごい。今19歳。彼は同じインタビューで「僕のなかで男の子のいちばんいいときは16歳から18歳の下顎が発達する前」と言っていて、新しいイケメン像の男性アイドルをプロデュースしたいとのこと。調べてみたら、昔ジャニーズ事務所に所属して2008年の「SUMMARY」に出てたんだね!今でもジャニーズ好きらしい!七五三掛担らしいよ!確かにシメちゃん下顎発達してないよね!ちょうどいいまとめあったから貼っとく!

matome.naver.jp

 

 

前置きが長くてすみません。阿久津くんがすばらしい人材すぎて。さて、ここからが本題。今回の対談、ちょっとこれはもう尊敬の域です。

 

タイトルは「欲望と自己愛についての対話篇―アイドル・イケメン・マイノリティ」。

この対談の何がよいって、阿久津くんのアイドルとしての自意識と、アイドルオタクである自意識がぐるぐるしているところ。わたしがアイドルについて感じてたことを、アイドル本人がバンバン言ってくれてる。しかも「腋毛は萌えなんですけど、すね毛は萎え」なぜなら「腋はそんなに拝めるものじゃないから出てきたときはちゃんと見ろみたいな英才教育が影響してるのかもしれない」みたいなガチオタ目線も交じってくるから、あっち側だしこっち側だしで、読みどころが多すぎる。

対談の副題が「アイドル・イケメン・マイノリティ」っていうのもポイントだと思う。特に気になったところを紹介してみる。

 

  • アイドルについて

好きな男性アイドルに少年性を求めるのはなぜかという質問に対して、阿久津くんは以下のように答えている。

(※この部分はニュアンスがとても大切だと思うで長めに引用させていただきます。)

 

 性的なこともなにも知らないうちからこの業界に飛び込んで、単に若くていいねというよりも、純粋だね、そのままでいてねみたいな言葉をかけられてきて、若さは強さというか、ずっと子供でいなきゃいけないと思っていたんですよ。そうは言っても身長は伸びつづけるし、いつかの冬に自分の肩幅が広がっていることに気がつき、大人たちが求めてくれていたものと違う方向に走っていることを自覚したときにそれを他人に投影するようになったんです。(p.204)

 

 

 まずね、この部分読んでちょっと泣いた。SexyZoneファンの私は、松島聡くんとマリウス葉くんの顔が思い浮かんでしまった。2011年に13歳でデビューした松島くん。松島くんが、昨年メンバーに本音を伝えるという企画で「中3で声変わりするまでは、歌うことがすごく好きだったの。5人の中でいちばん高い声が出て、それが俺にとって唯一の取り柄だと思ってた。でもそれすら失って…”これ”ってものが何もない自分がイヤでイヤでしかたなかったよ。*1と言ってたのを思い出した。11歳でデビューしたマリウスくんも、自分の身長が伸びることに戸惑っているように見える時期があった。

身長が伸びたり、声変わりをしたり、肩幅が広くなったりすることって、多くの男性にとって喜ばしいことのはずだ。でも阿久津くん自身、いまでも歳をとることに抵抗があるようで、「下降」という表現をしている。誰かにひどい言葉で「大きくなるな」って言われたわけではなくて、善意の「純粋だね」「かわいいね」って言葉にこそ縛られるのだ。若くしてデビューしたアイドルは、成長期にはいつまでも「小さくてかわいい」ままでいなくてはいけないというプレッシャーと闘い、成長したあとも「小さくてかわいい」昔の自分と闘いつづけなきゃいけない。

個人的に、松島くんとマリウスくんがメインで出演した昨年の「ガムシャラSexy夏祭り」は2014年で最も心が震えた現場だったし、成長した二人の姿は本当に本当に素晴らしかったと思うけど、そういうファンの声だけでは埋められないものもあるのだろうと思う。

先日読んだ『ダ・ヴィンチ』の朝井リョウさん×高橋みなみさんの『武道館』刊行対談を思い出した。高橋みなみさんは「善意がプレッシャーになっていく」こともあるのだと言っていた。「がんばれ」「かわいい」「もっと見たい」という善意の応援によってアイドルが壊れることもあり得るのだと。西武ドームで響き続けるアンコールの中、過呼吸になる前田敦子さんのシーン(映画「DOCUMENTARY of AKB」)と、高橋さんの言葉を重ねるともう何も反論できないという気がする。阿久津くんの話は、この高橋さんの言葉と松島くんやマリウスくんの存在を地続きにするものだと思う。アイドルは男女問わず、日々ファンや周りの大人たちの「こうあってほしい」という欲望にさらされていて、それが100%「善意」であっても、アイドル自身がそれによって傷つく可能性はなくならないし、彼・彼女の価値観に影響を与え続けるかもしれない。アイドルを応援することがアイドルを傷つけるなんて、普段コンサートでアンコールって叫んだり、少クラ見ながらSNSで可愛い可愛いつぶやいているときには想像もしない。じゃあオタクはアイドルのためにどうすればよいんだよって頭抱える。朝井さんの小説『武道館』は、読んでる途中でジャニオタの自分の身に刺さりすぎて、読むのがしんどくなって今中断している。でも、今後もアイドルを応援し続けたいから、最後まで読んで答えのかけらを見つけられたらいいなと期待している。

 

  • イケメンー(マイナス)0.5=アイドル=マイノリティ?

阿久津君は、二・五次元舞台のよいところとして「最初から男性が性の対象としてみられることをその男性自身や社会が許している」ということを挙げている。性の対象として見られ慣れていない俳優が、「キャラクター」を一枚のせることで、ファンも応援しやすくなるし、俳優もアイドルとして振る舞いやすくなると。少年アヤちゃんの「彼らにとって0.5はコスプレなんだ。それによって、人間の男であるというしがらみから解き放たれる」のだという返答も含め、首がもげそうなほどうなずいた。「男尊女卑」の芸能界の中で「女性が男性を性的にまなざした瞬間、女性の方が上にたてる」のだという阿久津くんの発言にもしびれた。先日KAT-TUNの東京ドームコンサートの衣装が「刀剣乱舞」のキャラクターみたいだと話題になっていたけど、コンサートなどのアイドルっぽい空間のジャニーズって、ド派手な衣装と「ジャニーズ」っていう肩書で三次元-0.5している気がする。おかげで少なくとも私は男性をまなざしやすくなってるなと感じる。

女性アイドルが男性アイドルに比べてしんどそうなところってやっぱり性に関する部分が大きくて、それは女性が結婚出産もろもろで仕事を続けづらかったり、女性向けに比べて男性向けの性産業が圧倒的に発達していたりする現実社会をそのまま反映していると思う。だから女性アイドルのしんどさって、社会の中でアイドルじゃない一般女性が抱えるしんどさとリンクしているんじゃないかと思う。

一方で男性アイドルのしんどさって、現実社会とあんまりリンクしていないのではないか。男性アイドルとして求められることと、社会の中で一人の男として求められることが違うからこそ、女性アイドルよりしんどい瞬間があるんじゃないかと思う。男性アイドルってマイノリティなのだ。(もちろん男性アイドルと女性アイドルどっちがしんどいかとかそういう話ではなくて。)

だから、阿久津くんのように言葉を持っている人が、男性アイドルのしんどさを身をもって知っている人が、アイドルをプロデュースする側にも入って、これからも当事者として言葉を発信してくれることが男性アイドル自身にとってもファンにとっても救いになるとよいなという願いを込めてこのエントリを書きました。

 

ということで、こんな濃い話が9ページも続くので、ユリイカぜひみなさん読んでください!

阿久津くん、今のBLとかアイドル語りのフェーズにめちゃめちゃマッチしてるから、今後こういうお仕事増えるのでは。というかぜひ増やしてほしい。

事務所関係とかいろいろ難しいと思うけど、「若い子たちに歳をとってもいいんだよと代わりに言う役になれたらなともいまは思っています」という阿久津くんにはぜひ、若手ジャニーズと対談してほしい。個人的にコンサートのレポ読んで、メタ視点が素晴らしいジャニーズWESTさんあたりとお話してほしいです。あとは女性アイドルとの対談もぜひ読みたいです。ユリイカさまダ、ヴィンチさま、実現よろしくお願いします。

 

久しぶりの更新でちょっと暗い話もしてしまったので、次は普通に舞台の感想とかアップしたいなー。

 

 

 

ユリイカ 2014年9月 臨時増刊号 総特集◎イケメン・スタディーズ

ユリイカ 2014年9月 臨時増刊号 総特集◎イケメン・スタディーズ

 

 

 

 

*1:2014Myojo6月号「ライバルは昨日までの俺」の中のマリウス葉くんにあてたメッセージの一部

ジャニー喜多川なき世界に向かって -ジャニーズ マスト ゴー オン-

ジャニー喜多川なき世界に向かって -ジャニーズ マスト ゴー オン-」というタイトルの文章を現代文化研究会『F』さんに寄稿させていただきました。5月4日(祝)の文学フリマで販売されます。今回のテーマは「継承 戦後カルチャーのゆくえ」とのことで、私はジャニーズにおける「継承」について書いています。

ということで以下一応宣伝的なことを。まずは、私が書いた内容を少しご紹介したいと思います。

 

 【目次】

 ジャニー喜多川なき世界に向かってージャニーズ マスト ゴー オンー

1. ジャニーズにおける「継承」とは

2. ジャニーズミュージカルと「Show must go on」の意味するもの

3. 劇場型人材育成システムとしてのミュージカル

4. 堂本光一中居正広と「Show must go on」

5. ジャニーズ文化の成熟とジャニーズニュータイプ

6. 佐藤勝利という光

7. ジャニー喜多川なき世界に向かって

 

 現在ジャニーズの「継承」問題といえばもっぱらジュリーVS飯島ですが、その辺りはメリーさんの独占インタビューでもうこれ以上私が語るべきこともないかなという感じなので、今回はこれまでジャニーさんが担当してきたコンテンツ面の「継承」について書きました。

 ジャニー喜多川がこれまでジャニーズアイドルに「継承」させてきたものとは何か、またそれがいかにして「継承」されてきたのか、さらにそう遠くない未来のジャニー喜多川なき世界でジャニーズは「継承」され得るのか。舞台仕事の話を軸にして、ジャニーズの現在・過去・未来に思いを馳せています。

『2015新春ジャニーズワールド』のこと、『EndlessSHOCK』のこと、SMAPのこと、山Pのこと、『ピンクとグレー』のこと、ふまけんのこと、松島聡くんのこと、マリウス葉くんのこと、じぐいわのこと、オリンピックのこと、佐藤勝利くんのこと、そしてSexyZoneのこと。

 私がジャニーズを好きになって感じたジャニー喜多川の素晴らしさと興味深さと恐ろしさを詰め込みました。自分でいうのもなんですが、なかなか面白い読み物になっているかと思います。14000字くらいあってちょっとした卒論みたいな量ですが、読みやすいです。 

 

 『F』の他の論考についても紹介できればよいのですが、実はまだ他の方の論考の内容をよく知らないので、詳しくは現代文化研究会さんのブログを見ていただければと思います。近く詳細が載るはずです。

現代文化研究会公式BLOG

実は!『F』を主催されている方の一人は『ジャニ研!』を書かれている矢野利裕さんだったりします。

ジャニ研!: ジャニーズ文化論

ジャニ研!: ジャニーズ文化論

 

わたし矢野さんファンです。わーいわーい。この辺の記事も好きです。

realsound.jp

 

realsound.jp

 矢野さんは今回はジャニーズについてではなく、ご専門の音楽や文学について書いてらっしゃるんだと思いますが、面白い論考が多そうで、どんな内容になっているのか楽しみです。ぜひ多くの方に読んでいただければ嬉しいです。

  

ではあらためて、『F』が買える文学フリマ詳細です。 

文学フリマ東京流通センター

5月4日(祝)11:00~17:00

現代文化研究会『F』(96ページ)¥300

2階Fホール オ11・12

文学フリマ - 第二十回文学フリマ東京 開催情報

 

『F』さんの原稿書くのにかなり時間かけましたし、書き途中のエントリが何本かありますし、4月はずっとジャニーズについて何かしら書いていた気がします。ゴールデンウィーク中に全部アップできるといいな。

 正しきセクゾンファンは4日はきっと大阪にいるんだと思いますが、私と同じようにチケットとれなかったという方は、文フリに出かけるのもよいかもしれません。4日はわたしも会場に行こうと思っていますので、ぜひ。奇特な方がいれば、お声掛けください。