『ドリアン・グレイの肖像』を観てきました。ー中山優馬はなぜ美しいのか、あるいはプリンスチャーミングの孤独について

中山優馬くんの主演舞台『ドリアン・グレイの肖像』を観てきました。9/4(金)のソワレ、東京凱旋公演です。もう全公演が終了しているので気にする方は少ないと思いますが、念のためネタバレありますのでご注意くださいませ! 

舞台 ドリアン・グレイの肖像 <オフィシャルサイト> 主演:中山優馬 徳山秀典 舞羽美海 仲田拡輝 金すんら

 

オスカー・ワイルド原作のこの作品は19世紀のロンドンが舞台。圧倒的な美しさを誇るドリアン・グレイという美青年が、自らの肖像画に「この画のような若さを永遠に保ちたい」という祈りを捧げたことが、悲劇の始まりとなります。彼のこの祈りが天に通じたのか、ドリアン本人は見た目が二十歳のまま、かわりに肖像画が醜く歳を取っていく…という不思議なストーリー。

 中山優馬くんが美青年貴族役!しかも、美しすぎるがゆえの悲劇!絶対これ私の好きなやつじゃん!と公演が発表された当初からかなり楽しみにしていました。実際、オーソドックスなストレートプレイがそんなに得意ではない私でも、かなり心が動かされた舞台だったので、ちょっと何に感動したのか、書いておこうと思います。

 

  • アイドル中山優馬が「ドリアン・グレイ」を演じる意味

優馬くん演じるドリアン・グレイは人々に「プリンス・チャーミング」と呼ばれています。雰囲気で日本語にしてみると「魅力の王子」という感じでしょうか。ドリアンが人々を魅了するのはその美しさゆえであり、ドリアン自身が自分の美しさは「若さ」と切り離せないものだと考えている。つまり「魅力の王子≒若さと美しさの人」という位置づけなわけです。「魅力が実力を凌駕する人」とアイドルを定義づけたのはライムスター宇多丸さんだった*1記憶していますが、生まれながらにして圧倒的な美しさに選ばれたドリアンはある意味アイドル的な存在として描かれていると言えるかもしれません。

個人的に最近、アイドルが(比喩的にでも)描かれる作品には「救い」を求めてしまいがちです。平たく言うと、アイドル(的な人)に最終的にはなんとか幸せになってほしい!と思ってしまうんです。でも、ドリアンが「若さ」という期限のあるもの信望しているのならば、いつかそれを手放さなくてはいけなくなるとき、ドリアン・グレイは絶対に不幸になってしまう。これは近年の特に女性アイドル界隈の卒業や劣化(とすぐ騒ぎ立てられる)問題とつながっている主題だと思っていて。だから今回『ドリアン・グレイの肖像』がアイドル中山優馬くん主演で舞台化されるにあたり、「若さと美しさ」に対抗する価値観が描かれるんじゃないかと期待して観に行きました。オスカー・ワイルドに現代的な批評性をもたせるためのキャスティングなのかなと。だって優馬くんが所属しているのは「若さ」に対抗する価値観を打ち出し続けて、奇跡的にアイドルの寿命を延ばしているSMAPさんのいる事務所なんだもん!

 

  • 「若さと美しさ」に対抗しうるもの

そんなとてつもない個人的な思い入れを持って観に行ったせいで、最初は少し期待はずれだったかな…と思ってしまいました。だって、「若さと美しさ」に対抗する価値観が全然描かれない。

たとえば、ドリアンが恋をしまう大衆演劇女優のシビルは、ドリアン自身が彼女を褒める言葉を借りれば「センスと才能」の人。でも彼女は、ドリアンと恋に落ちた瞬間からまったく演技ができなくなってしまう。「本物の恋を知ってしまうと、舞台での演技なんてウソの感情でしかない」というようなセリフのとおり。自分の「センスと才能」を失ってまでドリアンを求めたシビルでしたが、ドリアンが愛したのは女優として輝く彼女。婚約までしたにも関わらず、演技ができなくなったシビルを拒絶するドリアン。絶望して服毒自殺するシビル。「若さと美しさ」の前では、「センスと才能」は何の価値も持たず、迷わず捨てられるものなのです。

(そういえば、友人のヘンリー卿にシビルとの仲をひやかされたドリアンが「彼女は神聖な存在なんだ。僕にとって彼女に触れるというのは、毎日彼女の舞台を観に行くということなんだ」と言う場面があって、ああこれなんてわたし…なんてジャニオタ…と思ったのは秘密。余談でした。はい。)

もうひとり、舞台の冒頭でドリアンの肖像画を書いてくれた画家のバジルは、ドリアンの美しさだけではなく、こころの純粋さも評価してくれた人。彼は「若さと美しさ」に固執し、いつまでも二十歳の見た目のままのドリアンを心配し、忠告してくれるんですが、あっさりドリアン自身によって殺されてしまう。しかもドリアンはバジルの遺体を何の痕跡も残さず消すように友人の科学者に頼みます。ドリアンとバジルの友情、そしてバジルの信じていたドリアンのこころの純粋さえ、「若さと美しさ」の前では何の価値もないものとして消し去られてしまうんです。 

そもそも、ドリアン・グレイという人物がなぜ「若さと美しさ」だけに固執するのかもほとんど描写されません。ドリアンが「若さと美しさ」しか持たない人物だったら自分の価値=「若さと美しさ」と思ってしまうのもわかる。でもドリアンは、お金も地位も教養もある貴族青年であって、しかも周囲の反対を押し切って大衆演劇女優シビルと婚約してしまうくらい、恋のためにすべてを捨てられるこころの純粋さも持っている。

だから、ドリアンの行動に納得できなくて、やっぱり、少し期待はずれかな…と思っていたんです。第二幕が始めるまでは。

でも、そうじゃなかったんですね。第二幕でわたしは、ドリアン・グレイの、いや中山優馬の美しさに五連続平手打ちくらいの衝撃をうけます。

 

ドリアンがなぜ「若さと美しさ」こだわるのか分からない…そんな感覚が変化したのがいつなのか、明確には思い出せないのですが、気づいたらわたしは双眼鏡(近いけど一応持ってきてた)を取り出して、ドリアンを、優馬くんを見つめていました。なんて美しい人なんだろうと。いや、お顔がキレイなことは前から知ってたし、わたしがわざわざ言わなくてもみんな知ってると思うんですけど、なんていうかそういうのじゃなくて。

二十一歳の中山優馬くんの美しさがあまりにも圧倒的で、ずっと見ていたくて、今この瞬間にわたしがこんなにも魅了されているということが、すべてなのだと思いました。生まれながらにしてすべてをもっているドリアンが「若さと美しさ」に固執する理由も、対抗する価値観が描かれないことも、中山優馬という存在で全部納得させられました。あなたがいま僕から目が離せなくなっているのが、すべての理由だよって優馬くんはセリフじゃなくて存在で語っていた。

多分、美しいことに理由なんてなくて、若さや美しさに惹かれてしまうことにも理由なんてなくて。そんなオスカー・ワイルドの、現代からするとぶっとんだ価値観を舞台の上で支えていたのは、他でもない中山優馬くん自身の「若さと美しさ」だったと思います。

 

  •  プリンスチャーミングの孤独 

ドリアンは「若さと美しさ」のためにほかのものを犠牲にするとき、必ず鏡を見ているのが印象的。鏡にはドリアン自身の目で見たドリアンが映っています。そこに映るのはいつまでも若く美しい自分。

一方で自分の罪の意識に悩むときには肖像画を見ている。肖像画は、他人から見たドリアンの姿です。その肖像画は、どんどん醜くおぞましい姿に変わっていく。

 生まれながらにして圧倒的な美貌に選ばれてしまった人の、誰とも共有できない孤独。ドリアンは最終的に自らの美貌と心中するような最期を迎えるのですが、最後の最後まで誰にも共感や同情を求めない。

その孤独と気高さが中山優馬くんの美しさによってとてもリアルに感じられて、だからこそ救いがなくて、この世界の誰にも絶対にドリアンを救うことはできないのだと思ったら、最後のシーンでは泣けてしまいました。

美しさゆえの孤独と孤独がひきたてる美しさ。

もっと平凡に生まれていたら、味わうことがなかっただろう孤独。友達や家族がいるとかいないとか、そういうことじゃない孤独。ドリアンの孤独が、アイドルと呼ばれる人たちの、選ばれし人がゆえのとてつもない孤独と重なって、余計泣けました。幸せになってほしい、とか寝ぼけたこと言ってんじゃねえよ、そんな同情求めてねえよ、と優馬くんにビンタされた気分でした。

 

  • アイドルが外部舞台に出演するということ

ジャニーズに限らず、普段アイドルとしての活動をメインしている人が、外部舞台の主演をつとめるときって、批判的に見られがちな気がします。舞台俳優さんというのは、それっぽい表情や台詞回しができればよいだけではなく、訓練された身体を持つ方が多いからです。アイドルはステージでファンを魅了するプロではあっても、発声とか身のこなしとかどうしても差が見えやすくなってしまう。一方のアイドル側も、舞台出演を積み重ねて舞台俳優としての実力をつけているわけではないのに、集客力を見込まれて主演に据えられて葛藤することも多いのではないかと思います。(わかっていると思いますが、優馬くんがそうであると言いたいわけではありません。)

でも、今回のドリアン・グレイを観て、アイドルが外部舞台に出演する意味が、なんとなくわかった気がしました。

こころの美しさゆえに「若さと美しさ」に固執し、悲劇を起こすドリアン・グレイのリアリティは、やはり優馬くん自身のイノセント感というか、ある種のまっさら感によって支えられていたからです。うーん、まだこのへんをうまく言葉にできないのよね。また言葉が見つかったら、加筆します。

でも、アイドルが外部舞台にたつときの、その独特の存在感をこれからきちんと言葉にしていきたいなあと思います。

 

『ドリアン・グレイの肖像』本当に観に行ってよかった。中山優馬くん、ほかのキャスト・スタッフのみなさまもおつかれさまでした!

 

最後にまたまた余談ですが、演出で優馬くんが客席に降りる瞬間があるのですが、そのときも観客は優馬くんの方を見るのではなく舞台上のシビルに注目していて、客席のマナーがとてもよいなと思い、ジャニオタ以外の観客が多いのかなと思っていました。でも、カーテンコールで三回目に優馬くんが出てきたとき、お辞儀だけじゃなく両手をあげて客席にお手ふりした瞬間、客席がすごいフニャって顔になって優馬くんに手をふり返していて、あーみんな、外部舞台だから、優馬くんが恥をかかないよう、すごく気をはって観劇してたんだなあと。そういうの素敵。なんか優馬ファンさんというか、ジャニオタへの愛しさがこみ上げて、一瞬で現実に戻ってこれました良い意味で。

 

実はこのあと数時間後に、中山優馬菊池風磨マリウス葉くんの『DREAM BOYS』を観てきます。評判がいいようで、ものすごく楽しみ。ジャニーズ内部舞台の優馬くんをみるのが初めてなので、なんとしても外部舞台のドリアングレイの感想をまとめたくて、慌ててこれ書いています。でも優馬くんの素晴らしさを表現するにはまだまだ言葉が足りないなあ。ドリボ観終わったらまた何か思うことがかわるのだろうか。はあーほんと、楽しみだなあ。いってきます!

*1:『マブ論』参照のこと